放送作家の文章術① 文章は「書くために書く」のではない

放送作家の文章術① 文章は「書くために書く」のではない

具体的に「何をどう書くか」考えるまえに、まず大前提について考えてみましょう。

大前提とは、「文章とは、何のために書くものなのか」、その定義についてです。

先日、東京作家大学という、渋谷で開かれている文章講座の講師を務めました。

講義の初め、受講生の方に「参考までに教えてください。皆さんは何のために文章を書くのですか?」と尋ねてみました。

すると、ある女性が「それは書くことが、好きだからです」と答えてくれました。

彼女の書いた文章(高校時代の思い出を綴ったエッセイでした)を拝読したところ、なるほど、書くことが好きなだけはあります。 

私などより、はるかに美しく整った文章で、まるで村上春樹さんの小説にでてくるような、比喩表現も散りばめられています。

ただ残念ながら、その文章で「何が言いたいのか」は、まったく伝わってきませんでした。

「何かを伝えたい」といった思いが、文章からまったく感じられなかったのです。

彼女は「高校時代にこんなことがあった」と、伝えたいのかもしれません。

しかし多くの人は、見ず知らずの他人の思い出に、興味を示しません。

よほど衝撃的な体験でもない限り、誰にも興味を持たれることはないでしょう。

ましてや読む人の心をつかんで、最後まで読まれることはありません。

「書くことが好きだから書く」。そう主張する彼女は、そのエッセイを「文章を書くために書いた」のです。

ですが、私は「文章とは書くものではない、読んでもらうものである」と考えています。

私はよく、家族に料理を作ります。

文章は料理と同じです。

食べてくれる人がいるから、手間のかかる下ごしらえもできるのです。

自分で食べるだけなら、適当なもので構いません。でも誰か、喜んで食べてくれる人がいる。それだけで栄養バランスのとれたメニューを考え、よい素材を選び、ていねいに下ごしらえをして、慎重に調理する。そして盛りつけや、全体のバランスにも気を配ります。

文章も誰か、読んでくれる人がいて、ときに喜んでもらえる。だから、私は書いています。

テレビ番組の原稿であれば、多くの人が楽しんでくれた証、好視聴率といった評価。書籍であれば、「役に立った」「面白かった」といっていただける、読者の皆さんの声があるからこそ、書いているのです。

ですから私は、「自分が書きたいこと」ではなく、「視聴者が観たいこと」、「読者が読みたいこと」を書くよう、心がけています。

すべての文章には「読者」がいる

すべての文章に「読者」がいます。

小説やエッセイ、ノンフィクション、実用書やビジネス書といった商業出版はもちろんそうです。

でも商業出版ではない、私たちが普段書いている手紙やメール、ブログ、コラム、セールスレター、メールマガジン、企画書、報告書、提案書、小論文、レポート、小説やエッセイ……。

あらゆる文章に、読む人が存在しています。個人的な日記ですら、未来の自分が読者といえるでしょう。

文章は「読者のためにある」のです。

人に読んでもらい、言いたいことを伝えて理解してもらう。すべての文章は、そのために書かれます。

文章はあくまで、何かを誰かに伝えるための、ツールに過ぎません。

書き手がどんなに一生懸命に書いたとしても、「読んでもらえない」「伝わらない」「理解されない」文章は、食べる人がいない料理と同じく、ダストボックスに捨てられるだけです。

「文章とは書くものではなく、読んでもらうもの」、まずはこのことを頭に入れたうえで、書くための具体的な作業に入っていきましょう。